秦野市東海大学前駅の不動産会社松屋不動産二代目社長のつれづれ日記

小田急線「東海大学前」駅徒歩1分東海大学学生さんへの賃貸アパート紹介・秦野市伊勢原市不動産売買仲介を47年。松屋不動産での日々の出来事を物件情報とともにお届けします

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ヒロシマ・モナムール TIME IS LIFE

みなさまおはようございます。1945年の8月6日、広島市へ原爆が投下された日です。深くお祈りしたいと思います。

いつもアクセスしていただきありがとうございます。

さてお客様より再度、リクエストがありましたので再度、登録いたします。「ヒロシマモナムール」 広島県行ってはやだいぶ経つな~・・・

 

今回は私の想いをPVにしてみました。これが我々の世代にできる「歴史を語り継ぐ」ということだと思います。

 

 

 

 

 

第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月6日、午前8時15分・・・

 アメリカ軍、日本の 広島市に原爆を投爆

実戦において世界最初に使用された核兵器です。この投下により約14万人が亡くなり、そしてその後も被爆による後遺症で亡くなる方が数多くいます。

 

B29エノラゲイ号は8時9分 広島市上空を飛行し8時15分17秒・・・核爆弾リトルボーイは投下された。

 

投爆されたりそれは中島地区を直撃して爆心から500M以内のものを完全に壊滅。

その日の朝は午前7時過ぎに空襲警報が解除され、外へ出て1日の活動を開始していた・・・まさにその直後のこと

 

木造建築はすべて破壊され、熱線照射の直後の爆風で数10メートル吹き飛ばされたり、大やけどを負って・・・ほぼ亡くなったそうです。

 

それだけでは終わらずその後原爆の炸裂の高熱により巨大なキノコ雲を生じ雲の発達により湿った空気が冷やされ前を降らせた・

「黒い雨」である。

これによリ被爆をして人体への大きな影響が今も続いているというのはみなさんもご存じのとおりです。

 

8月15日終戦記念日・・・・毎年テレビで平和記念公園でのの式典の模様を見る。

原爆死没者慰霊碑・・・ここにこう書いていあった。

「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」

 

その石室には91冊分の死没者の名簿253,008人分および1冊の氏名不詳死没者となっているそうです(2007年当時)

 

 

原爆ドーム・・・天井から付きぬけたその衝撃は下まで到達して今はその姿を負の遺産として後世に兵器の恐ろしさを伝えている

 

 

原爆の子の像・・・被爆をして入院したその女の子は薬の紙を使って自身が治るように折り紙をつくり続けたが結局、かなわなかった

 

平和を祈ってつくられた鐘・・・そこには全世界がつながった世界地図が描かれている

 

平和公園の中で遊ぶ小さなこども・・・この悲しい歴史を後世まで伝え続けるのはとても大事です。

 

資料館・・・その中にはやはりその歴史が現実であることを深い悲しみを伝え続けております。

大人のみならずたくさんの小さなこどもが犠牲になったのは2児の父親としてとても胸が痛くとてもつらいものでした。ですがやはり事実なのです。

 

慰霊碑の奥には原爆ドームが・・・・そして灯されている平和の火が消されることはありません。

 

私がこの公園を訪れた日6月21日時点で原爆リトルボーイが投下されてから23695日・・・これが遠い昔のこととしては決していけません。限りある時間・・・まさにTIME IS LIFE 時は人生なり。亡くなられた多くの方たちのご冥福をお祈り申し上げます。

 

これはホテルより撮影した 広島湾の様子・・今ではこんなに平和の朝陽がヒロシマ市を照らします。

 

今回、仕事でこの 広島市に行くことになりましたが、以前より 広島を訪れ是非その原爆ドームを拝見したいと思っておりました。

実際に行ってみると想像以上の衝撃に言葉を失ったと記憶しております。平和公園の中で小さな子どもが遊んでいるそばには

お骨が埋葬されている塚があったりするその環境に、私の認識が浅かったなと反省いたしました。

 

今更、誰の責任でこうなってとか、もちろん誰が悪いということを論じても亡くなった大勢の方が帰ってくるくるわけではなく・・・

 

 

ただただ

 

「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」

 

 

合掌

松屋不動産 福嶋秀樹 

 

更新日時 : 2020年08月06日 | この記事へのリンク : 

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